市場分析の資料が、提出された翌週にはもう誰も開かなくなる。この現象を、多くの現場では「情報が足りなかった」「粒度が粗かった」と説明する。だから次の資料はもっと厚くなり、もっと参照されなくなる。私たちは、原因は量ではなく構造にあると考えている。
ひとつの資料の中に、性質のまったく異なる3種類の文が混ざっている。すなわち、確認できる事実。そこから導いた解釈。そして検証されていない仮説。この3つが同じフォントで、同じ箇条書きの中に、同じ調子で並んでいる。
読み手は、判別できないものの上では決断しない
たとえば次の3つの文を考えてほしい。並べて書けば、どれも同じ強さの主張に見える。
- A社はトップページに「導入実績1,200件」と記載している。
- A社は実績数を信頼の中心に置いている。
- 貴社は導入後の成果を語ることで差別化できる。
1文目は、サイトを開けば誰でも確認できる。2文目は、書かれ方から導いた読み筋であり、別の読み方もありうる。3文目は、まだ何も検証されていない提案である。しかし資料の上では、この3つはたいてい同じ見た目で並ぶ。
受け取った側は、どれを疑い、どれを信じてよいのかが分からない。そして人は、判別できないものの上では決断しない。全部を疑うか、全部を「参考資料」として棚に置くかのどちらかになる。後者が、あの分厚い資料が二度と開かれない理由である。
混ぜているのは、たいてい親切心である
分析する側に悪意はない。むしろ逆で、読みやすくしようとした結果として混ざる。事実だけを並べると素っ気ないので解釈を添える。解釈だけでは物足りないので提案を足す。一つの流れとして読めるように、境目をならしていく。親切のつもりの整流が、読み手から検算の手がかりを奪う。
もうひとつの理由は、分けると弱く見えることだ。「〜と読める」「〜という仮説が立つ」と書けば、断定するより自信がなさそうに映る。だから語尾を強くする。しかし断定は、強さではなく、根拠の所在を隠す行為である。
分けたときに何が起きるか
私たちは自社の観測装置で、この3層を色で分けて表示している。事実には必ず原文の逐語引用を添え、解釈は「〜と読める」の文体に固定し、仮説には「この仮説が成り立たない条件」を必ず併記する。
引用を付けられない観測は、出力しない。観測できないものは、観測できないと表示する。
分けると、読み手の行動が変わる。まず、事実の部分を疑わなくなる。引用が添えてあるので、疑うより先に確認できてしまうからだ。次に、解釈の部分で自分の読み筋を持ち始める。「いや、これはこうも読める」という反応が出る。そして仮説の部分で、初めて意思決定の話が始まる。
つまり、分けることは弱さの表明ではない。読み手を議論の中に引き入れる装置である。動かない資料の多くは、読み手を議論に入れないまま結論だけを渡している。
「わからない」と書けるかどうか
3層に分けると、必然的にもうひとつのことが起きる。書けない欄が出てくる。価格の記載がないサイトの価格戦略は、観測できない。そこには「わからない」と書くしかない。
この空欄を埋めたくなる誘惑は強い。分析料をいただいている以上、空欄は手抜きに見えるのではないか、と。しかし埋められた空欄は、あとで必ず読み手の判断を狂わせる。そして一度でも狂わせた資料は、それ以降すべての行が疑われる。
私たちの装置は、全社が価格を伏せている市場では堂々と空欄を4つ並べる。そして、その4つが揃って空いていること自体が、市場の空白を示す観測になる。埋めていたら、決して見つからなかった空白である。
分析の価値は、量ではなく検算可能性にある
良い市場分析とは、多くのことを教えてくれる分析ではない。どこまでが確かで、どこからが読み筋で、何がまだ検証されていないのかが、読んだ人に分かる分析である。その線が引かれているとき、初めて読み手はその上に自分の判断を積める。
情報を足すより先に、線を引く。私たちが観測装置をつくるとき、最初に決めたのはそれだった。